道元「禅」の言葉
著者(編集者):境野勝悟
出版社:三笠書房
- 釈迦が苦行の末に悟った真実
釈迦が人間にはない超能力を求めた苦行、片足で数時間立ち続ける、太陽を見続ける、断食、あわや命絶えんとしたとき、仙人の苦行を捨てて、菩提樹の下で静かに座禅を組んでいた時、宵の明星を見て悟ったことは、ものを見る目の素晴らしさだった。「ものを見る目」の力は、苦行してえたものではない、生まれたときから持っていた力、本当に尊いものは外にはない、他ならぬ自分の中にあった「見る目」の力。 - 飯を御飯、味噌汁を御味噌汁という
仏は、仏壇の中にはいない。仏様は、自分の中にいる、ものを見る目の力、ものを聞く耳の力、ものを嗅ぐ鼻の力、ものを味わう舌の力、ものを感ずる心の力。つまり人間がもともと仏様である。粥を食べるのは、単なる人ではない。仏の生命、つなり、仏性を持った尊い人なのである、その本来仏様が食べるものであるから御をつけて、御粥、御飯、御味噌汁、御かずと呼ぶ。 - 自分を批判する目を持つ
世の中、どうしてこんなにも「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」が多いのか。色々理由はあるが一つ見逃されているのは、私達があまりにも、生きる価値を、世の中や他人様に求めすぎているということ。 - どこでも、だれでも茶の味は同じ
仏教の悟りを他人から教えてもらおうとしても得られない。どんな偉い坊さんから言葉で説明されても、他人からは得ることはできない。お茶をぐっと飲む瞬間、理屈抜きで「ああ、うまい」と感ずる生命の尊い力を、自分で自分の体の中に発覚するのが仏教の悟り。 - ほめられないといきていけないと、いう人
私は生きる価値を世の中ばかりに求めてしまう。世の中が自分を認めてくれるかどうか。それが、心配でたまらない。他人に褒められたいとばかり思っていると、自分の生活が他人の手にゆだねられて、何を価値として生きているのか、自分で自分がわからなくなる。そうして、いつしか世間が認めてくれないと生きてはいけなくなる。世間などというものはどこにもない、頭の中にだけある夢幻である。そんな愚にもつかぬ夢の中に、生きがいが発見できるわけがない、道元は当てにならぬ夢をつかもうともせず、「放て」という。放ち捨ててしまえば、本当の生きる価値が「手に満てり」手の上に満ち溢れるよ、、、と。 - いいひとのそばに
いいひととは道を求めている人、道を究めている人、しかも寛大で優しい人。自分の中に仏性が内在していることを深く悟っている。学歴が高く、お金儲けが上手で、社交達者で、厳格で、教養の豊かな人かといってもそうとは限らない、一方、寛大を甘いと履き違えない。